kuu aalto は、現在準備中です。
2019/05/29 12:15
先日は小学校の運動会でした。
真夏日のような暑さの中
私の姪たちと甥は、それぞれ小学校が違うので
2校を行ったり来たりして、汗だくでした。
私は両親と共に(実家で)暮らしていて
姪たちは週2~4日、甥は週1~2日やってきます。
つまりしょっちゅう会っています。
それでも運動会は
友達とどういうふうに接しているかとか、みんなで合わせてなにかやるとか
小さいと思っていたけど、同級生に囲まれると特に小さくもないとか
そういったものが目に見えるので、私にとっては少し特別な感じです。
小2の姪のダンスを見ている時 「なんか大きくなったなぁ」と感じました。
グッとくる感じ。
その時ふと
「自分が産んだ子なら、もっとグッとくるのかな」
と思いました。
「自分のお腹から出てきた子が、大きくなって、動いて、踊ってるって、どういう気持ちなんだろう?」
という、ほんとうに素朴な疑問。
「きっとすごく感動するんだろうな~」
と想像しました。
しかしその直後に
「生まれた瞬間から別々の”個”なのに、私はキラキラとドラマチックにしすぎかな?」
とも思いました。
「私が産んだ子」
「子供が大きくなった」
というふたつの事実を、私の脳内が、勝手にくっつけているのかなと。
直線の虹、初めてみました。
当たり前ですけど、この答えって、私には「わからない」です。
経験したことがないから。
とにかく今の私には「わからない」。
しかし ”私にとって” 姪たちも甥も感動を与えてくれる存在です。
そしてやっぱりそれは、その感動は
私が産んだかどうかは関係ない。
私が感じる感動。
私がわかるのはそれだけ。
「他の人の感動」や、「仮定の私の感動(例えば産んだとして、とか)」は
絶対にわからない。
感動は感じるものだから、その瞬間(今)じゃないと感じられない。わからない。
だったらやっぱり、私は私で、素直に感動すればいいんだなと思いました。
「私は産んでもいないのに」
「私は産んでいないから」
とか、くっつけなくていいんだな。
逆に
「産んでないけど、小さいころから面倒みてきたし!」
「産んでないけど、自分の子供みたいに思って接してきたし!」
とかいう、理由探しもしなくていいんだな~と思いました。
↑
これ、心の中でやってること、あったんです。
理由っていうか
感動する権利のようなものをどこかに探してた。欲していた。
なければ、易々と感動してはいけないと思っていた。
そもそもそんなもん どこにも無いんですけど(笑)
私は子供たちに対して
可愛いと思うこともあるし、ムカつくこともあるし、
イライラして八つ当たりすることもあるし、愛しくて抱きしめることもある。
幸せで在ってほしいなぁと願う。
とっても愛しているんだなぁと気づきました。
事実は
「私は出産経験がない」
「彼女らは私の姪である」
「彼は私の甥である」
「私は彼(彼女ら)の叔母である」
以上!
愛する気持ち、感動する気持ちに
「産んでないのに」
「産んでないから」
「産んでないけど」
って、本当に不要でした。
私が勝手にくっつけたくて、言いたかったから言っていたんだ
(って気づいたら、感動しました!あまりにも思い通りになっていてww)
この日、ハロ現象が起きました。綺麗で、不思議で、感動しました。
帰ってからノートに書いていて、今回のことに気づいた時
あの時の現象は、私の気づきを祝福してくれていたんだ!と感じました❤
改めて
どうあってもよい
何を感じてもよい
何をどう受け取ってもよい
自分に許そうと思いました。
運動会、めっちゃ楽しかったなーーーー!